1876年(明治9年)~1956年(昭和31年)。本庄市出身の反骨の思想家。旧姓は五十嵐。別名・旭山、不尽。石川三四郎は1902年に萬朝報に入社以来、堺利彦、幸徳秋水、木下尚江等と運動を共にしながら、論説者・発行者・編集者として活躍しました。
1910年天皇暗殺謀議で幸徳秋水ら12人が処刑された大逆事件を逃れ、ヨーロッパ亡命中に出会った、カーペンター、 ポール・ルクリュ等知識人との交友の記録や、帰国後三四郎が晴耕雨読の生活を続けながら発行した月刊誌「ディナミック」その他の資料は残存資料が少ない時代の大変貴重な資料といえます。第二次大戦中も非戦論の態度を貫き“日本の良心”とたたえられた三四郎は1946年日本アナキスト連盟の結成に参加、以後講演・執筆活動を行ない、思想の宣伝に努めます。
晩年も精力的に活動し、80歳で波乱に満ちた生涯を閉じます。
ポール・ルクリュ夫妻宅の中庭で <p>ポール・ルクリュ夫妻宅の中庭で<br>
(向かって左が石川三四郎、中央がポール・ルクリュ夫妻)
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